龕室(がんしつ)
5月に行われた李氏朝鮮王朝家具の研究会報告書です
手仕事やの個人的な考察をまとめてみました。
これから仏壇や厨子を購入したい方は参考にしてください。
李朝木工研究会
第1回「李朝木工家具概説」
講師 谷進一郎氏
会場 松本市 長野県工業技術総合センター環境情報技術部門 大会議室
日時 5月14日(土)午後1時から5時
今回の概説ではその歴史的背景や社会構造、生活環境といった多方面からの解説をしていただいた。以前から家具といった一方向からの見方しかしていなかった私にとって大変わかりやすく、改めて李朝木工の歴史的価値観を再認識できた貴重な研究会でした。
特に興味を引いたのは谷氏の蔵書の中にあった仏龕(ぶつがん)、龕室(がんしつ)でした。今後の仏壇つくりをするうえで貴重なヒントをいただいたような気がします。私は家具の世界から木工を始めたのではありませんので、今回の研究会での感想を仏教美術の観点に絞って木工あるいは漆工について述べたいと思います。
前出の英語の解説では
[memorial tablet chest(龕室)][先祖の位牌を入れる箱。]
[spirit tablet case(仏龕)][仏像や経文を安置するために壁面や塔内に設けられた小室、あるいは屋内に安置するための容器。]
と解釈されます。
どちらも日本では厨子と呼びますが、道教や儒教などの先進国である中国や朝鮮半島では使い分けていたようです。タブレットは位牌や経文を指すと思われます(位牌を作る習慣は道教から来ているようです)。当時中国大陸では儒教によって国が治められており、祖霊信仰の大切なアイテムだったようです。ちなみに当時の仏教は僧侶や権力者だけのものであり大衆までは至っておりませんでした。
日本でも聖武天皇の時代より政治のお手本が中国であり、国策として儒教を取り入れました。時を同じくして一部の権力者のものであった仏教の世界では弘法大師などは中国大陸より仏龕(ぶつがん)を持ち帰っており、金剛峯寺には国宝として収蔵されているそうです。
しかし、それ以前には7世紀に玉虫の厨子が存在しており一説には推古天皇の時代に制作されているようです。これも、仏像制作と同じく当時は朝鮮半島より工人が渡来しその技術を日本人に教え制作されたもののようです。
時代は前後しますがすでにこのころには仏教は日本に定着しており蘇我・物部の抗争の末に、国の統一のため東大寺を中心とした国分寺の建設などで時の権力者には仏教が利用されていた時代です。
いずれにしても日本における仏教美術の思想的な目標は中国であり技術的な師匠は朝鮮半島であったようです。日本人は双方をたくみに取り入れ風土に合わせて進化させていったようです。
日本において面白いのは仏教と儒教の二本立てで政治を行おうとしていたところです。これは双方が日本に伝来する前から神道による祖霊信仰の土壌があったことに起因するところが大きいようですが、ちなみに当時の仏教は一部の権力者のものであり大乗には至っておりませんでした。その後大乗に移っていく大きなきっかけは最澄・空海の登場です。両者は当時の唐にわたり新たな仏教思想を持ち込み、その弟子(法然・道元・親鸞・日蓮)たちによって大乗へと民衆に浸透していきました。
ここで仏壇の登場ですが、仏教が大衆へ浸透していくと親鸞を中心とした浄土真宗の一派でお内仏と称する厨子を使う人たちがいました。これは西本願寺の本尊を在家の居間に安置するための箱でしたが、形は本山の内陣をそのまま縮小し箱に仕込んだものでした。これが後に発展し大乗の各宗派で作られるようになって行きます。名前も仏壇です。意味とすれば龕室・仏龕の両方の機能を持ったものに進化していきます。なぜか形については浄土真宗の形を踏襲しているのが未だに理解できないところですが、多くの思想を取り入れて発展させ多機能に作り替えていく手法がいかにも日本人的でおもしろいところです。
少し時代は飛びますが江戸時代に入り寺請制度などにより宗教選択の自由がなくなり(論語などの儒教的な思想は残りました)、明治維新により廃仏毀釈運動が起こり、大衆の中の仏教は衰退の一途をたどります。
現在は何とか江戸時代からの檀家制度のもとに地方では一部残ってはおりますが、民衆の生活環境にはほど遠い存在になりつつあります。それと同時に仏壇も従来のものでは生活環境や宗教の多様性にも合わなくなってきています。
こういった仏壇の歴史的背景と現在の住環境や宗教的な伝統を踏まえると、現代は祖霊信仰を中心とした宗教の多様性と住環境の個室化等、李朝家具に学ぶところが多くあります。
次の時代に日本人らしくどんな仏壇を作るべきなのかを考える上で龕室・仏龕・厨子は貴重な遺産として継承すべきであるし、原点に戻って作り込んでいくことも必要かとも思います。
筆者 藤澤慎一